久しぶりの雨だれは。
或る日。
クラッシックがかかっていた。
チャイコフスキーのピアノ協奏曲。
「しんどいけどね、聴きたかったの」
がんの終末期。
腫瘍が腸の道路事情を変える。
お腹は膨らみ、絶え間無く吐き気が彼女を揺さぶる。
食べられないから、一層そのしんどさが増しているだろう。
せめてガスを誘導するが、なくなる苦痛はほんの少しだろう。
注射や鎮痛薬が少しでも助けてくれていたらいいのだけれど。
それでも、彼女は毎回言うのだ。
「ありがとう。楽になった」
「こちらこそありがとう。また来ます」
肩をさすり、手を握る。
翌日。
昨日より憔悴した表情。
家族の表情にも看病の疲れが滲む。
曲はラフマニノフだった。
「うちのオトコどもは分からないけどね(笑)」
傍らのソファで苦笑するダンナさんと息子さん。
重たい空気がふっと軽くなる。
彼女の、家族の重ねた年月のチカラなのだった。
少しの体動も、疲労と苦痛がかなり大きい。
ケアを分けて夕方に再訪問。
他のお宅を周り、夕方に再び訪問する。
自ら浣腸を希望された。
腸の動きは止まってはないが、かなり弱い。
さらなる吐き気を誘発するし、効果より消耗が激しいことを伝える。
「する」
もしするならばオムツの中でもできるが、と聞いてみる。
「頑張る。座りたい」
はっとするくらいに、きっぱりと。
「分かりました。じゃあ、座ろう」
家族と一緒に、振り絞るようにベッドサイドのトイレに移る。
か細い手を私の首にしっかりと回す。
私は彼女を丸ごと抱え、背中をさする。
吐き気に耐えながら振り絞る力が伝わってくる。
細い細いカラダにこんなチカラが。
あー、あったかいなあ。
当然ではあるが、ほとんど反応はなかった。
横になりウトウト。
疲れたろうな…。
手をさする。
「しんどかったね…」
「…安心した」
笑顔のまま、呟き、ウトウト。
綺麗な顔をしていた。
しばらく見惚れてしまった。
その時、彼女はほんとに綺麗だった。
翌日は、雨だった。
勤務に向かいながら、ショパンの雨だれは好きかなあ、と彼女を想う。
その日の訪問はベテランのスタッフ。
温かい人柄で慕われている。
彼女の訪問を待っていたかのように、しばらくして彼女は亡くなった。
息を引き取るまで家族が見守った。
エンゼルケアは家族と一緒にした、と聞いた。
その日帰ってから、雨だれを聴いてぼんやりと飲んだ。
首に残る感触と温かさが生々しい。
人生の分だけ、家族の分だけいろんな時間がある。
当たり前だけど
ほんとにいろんな、だ。
最後の大切な時間。
決して、死にゆくのでない。
生き抜いて果てる。
つながっている時間。
貴重な訪問時間。
自分に今何ができるのか、観てはフル回転で考え、動き、また観て…。
毎日毎日、自分の無力さを思い知る。
思い知るけど、虚しいと感じたことはない。
自信はないけど、辞めたいと思ったこともない。
目下、こんな毎日。
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