そこは、杏。
中学の一時期を西宮で過ごした。
たった2年間だったけれど。
後にも先にも。
自分にとってなくてはならない場所になったのも、ここ。
それは母にとってもそうだったようで。
「今日、あんず、に行って来たんだよ」
時折、会話のなかにふと登場する“あんず”という場所。
一度だけ連れて行ってもらったことがあった。
品の良いマダムが、ゆったりと営んでいた。
あまりお客さんもいなくて。
静かな静かな空間だった。
「ここはママの秘密の場所なのよ」
母はここがお気に入りだった。
仁川の駅のウラにひっそりとある喫茶店。
あんずというのは母が勝手につけてた名前で。
「マダムの家のお庭に杏の木があってね。お茶のときにちょっと、つけてくれるのよ」
ということで。
昨日、しとしと雨のなか。
か細いキオクを頼りに行ってきましたらば。
ああ。
ありました。
そうです。
ここです。
扉をあけたら、ほのかな灯り。
にこっと笑うマダムも。
相変わらず品がよく、柔らかい。
お店の家具も、アンティークの虫眼鏡も、そのままで。
ああ。
そうだ。
ここです。
2階でお茶を飲む。
甘酸っぱい杏も一緒に。
ぼんやり山を眺め。
ふと。
今のワタシはあのときの母と同い年なんだ、と。
子育てや忙しい家事の合間。
母はこうして時々、一人の時間を楽しんだのだな。
今になってみて、よく分かる。
こういう時間の大切さ。
こういう時間を見つける母のステキさ。
いい時間を過ごせました。